佐藤春夫
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」77
おわりに(3) 春夫の「反骨」を培った土壌と共に、父と母とによって育まれた「人格」も無視できません。生田長江の回想と共に、与謝野晶子も家庭教育の影響に触れています。 春夫自身の父や母に対する恩恵は、以下の言葉に尽きていま …
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」76
おわりに(2) 大正3年12月、春夫はまだ無名の女優川路歌子(遠藤幸子(ゆきこ)・明治29年9月生)と同棲し、本郷区追分町9に新居を構えます。友人の武林無想庵が、春夫らをモデルに「新しい男女」を「読売新聞」に発表するのは …
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」75
おわりに(1) 春夫の上京までを目途に、その「反骨精神」の誕生の由来、醸成の土壌のようなものを探ってみようと出発したのでしたが、上京後もなかなか筆を納めきれなかったのは、上京して真直ぐに「文学」の道に邁進し、「大成」への …
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」74
番外編・春夫の反骨精神の行方 2010年10月11日付の朝日新聞の投書『声』欄に次のような文章が載りました。「浅沼殺害 絶句した佐藤春夫」の見出しです。全文を引いてみます。 「1960年10月12日、私は東京の佐藤春夫邸 …
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」73
「愚者の死」の製作 (続) 愚者の死」が、この年「スバル」の3月号に発表されたとき、いま一般に普及しているような、「うべさかしかる商人の町は歎かん」と「ー町人は慎めよ」との間の行空(ぎょうあ)きはありません。ひとつの纏( …
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」72
「愚者の死」の製作 「千九百十一年一月二十三日/大石誠之助は殺されたり」で、「愚者の死」は始まる。 雑誌「スバル」の、1911年(明治44)3月号に発表されたこの詩は、一般に思想的な意味合いを帯びたものとして、「傾向詩 …
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」71
神田須田町の停車場 東京神田須田町の電車停留所の人ごみのなかで、3人の青年が電車待ちをしていました。3人とも、1910年(明治43)3月新宮中学を卒業した同級生で、上京10ケ月足らず、多少酒が回った様子でした。ひとりは、 …
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」70
「反骨」から「日本人ならざる者」の自覚へ 春夫が新宮中学を卒業して、7月の第1高等学校受験を目指し、受験に挑んだが挫折、与謝野寛らの勧めもあって、親交を深めつつあった堀口大学とともに、永井荷風を慕って改めて慶応義塾予科に …
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」69
春夫の上京(2) 春夫が言う国漢の2先生とは、小野芳彦と小田穣(みのる)とです。ふたりとも父豊太郎の知己。小田は千畝と号する新宮俳句界の草分け的存在で、漢詩も物して、新宮8景の漢詩を残しています。ちなみに8景を記せば、「 …
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」68
春夫の上京(1) こうして春夫の中学時代は終わり、明治43年3月31日新宮を出立して上京の途につきます。当日、春夫が挨拶に小野芳彦を訪れたことが、その日記から窺えます。「春夫君告別に来る。第一高文科志望の由」とあります。 …
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